世界ぷらぷらロゴトップ

   旅のエトセトラ トップ > 旅の準備 > 旅の祭り > PHOTO > 出会い > ぷらぷらcafe > Book
旅のヘン >  旅のお酒 > 旅の踊り > 旅の雑感 > 旅のディジュ

その時々に思ったことをそのまま書き綴ります。思いの「はけぐち」になっちゃうかも!?

<身近な人をこそ、傷つけてしまう。>

そんな自分だと分かっているからこそ、情けない。


抑制の効いた、外聞の良さげな自分。

抑えの効かない、冷酷な自分。


身近な人であればあるほど、本当の自分が出てくる。

「不要な一言」を言ってしまう自分。

「思ってもいない一言」を流れで言ってしまう自分。

深く考えずに「相手を傷つける一言」を言ってしまう自分。

いずれにしろ、それは私の内面の問題だ。


話を聞くときのスタンスにすら問題があると気づいた。

「先を読みながら」
「何を背景にしているのか」
そんな推測を働かせながら聞く。

本当は、違うことにも注意を払うべきだ。

「相手の立場になって」
「やさしさを持って」
そんな風に温かさを持って聞きたい。

本当は、心情的な力を働かせるべきだ。


そんな思考法になっていることを考えると、思い当たる点が多々ある。

まず第一に、情緒的な感情を持つのが苦手なこと。

そして、合理的にばかり考えてしまう。


自分の弱さも関係している。

自分を守ることに精一杯で、相手のことを考える余裕がないのだ。


こうして考えをまとめることも、思いを明確にするのに必要なことだ。

文章にしてちゃんと考えないと、自分が変われないと思う。

文章にしても、変わるきっかけにすることは難しい。


納得した結論、納得した反省を得ないことには意味はない。

心から納得していないことを考えたとしても、自分が変わるはずはない。


「世界観が崩れる。」そんな経験をしたい。

どれほどの衝撃ならそう言えるのか。


生まれ変わりたい。

もっとましな人間になるために。

06/12/18

<人恋しさ。>

正直、1人でいることがつらい。

これは慣れの問題なのか、それとも自分の弱さの問題か、それとも誰しもそう感じるのか。

彼女と別れ、1人を感じた。
その後、ダイちゃんやケイコちゃんという旅の仲間を得て、孤独を忘れていた。

孤独がつらいのか、それとも彼女がいないことがつらいのか。
彼女と別れてからいろいろなことがあった。

ダイちゃんからは、黙って考えることの重要さを学んだ。
ケイコちゃんからは、先の予定に縛られずのんびり考えることを学んだ。

やはり、誰かと一緒にいると言うことは、孤独を忘れる安心感を与えてくれる。また、同時に刺激でもある。そして、学ぶ機会でもある。
本当はもっと彼女から学ぶべきはずのこともあったはずだし、彼女も私から学ぶこともあっただろう。いつしかそれが、まんねりとなり機会を逸する。

新しい仲間を得ることは楽しい。
しかし、簡単に友達にはなれない。旅中でもあり、擬似友達感覚は発生しやすいものの、本当に仲良くなる為には時間も必要になる。多くを語り合うことも大切だ。それはメールでのやりとりなどネット上の連絡でも良いだろう。

ともかく、次に友達を作れるのはいつになるのだろう・・・。
もちろん、彼女ができれば1番嬉しいのだけれどね(笑)。

06/10/15

up↑

人の目を見ると言うこと。

自信がなくてはならない。

少なくとも自分自身に、ちゃんと自信を持って生きたい。

全てが出来るわけではないし、空威張りもある。

本当の自信と空威張りは別問題だ。

変なプライドとしての自意識や、余計なことは置いて・・・。

相手の目を見て会話が出来なくてはならない。

今(ちょっと前だけれど)まで、しばらくの間、それができていなかった。
目を見て話さなくては、真意も伝わりづらい。
そして、信頼関係を築くのも難しい。何でこんなことになったのか。

理由は対人関係に自信がなくなったからだろう。
そのままで言い訳がない。いつまでもそれが続くわけがない。

もっと胸を張って、ダメな自分でも胸を張って、堂々と生きていかないと。

06/10/15

up↑

<旅の意味>

最近思う。今、どうして旅をしているのだろう?

自分にとって、旅って何だろう。何だったのだろう。
旅していても不思議と高揚感がない。そもそも長期の旅に出たいと思ったのは、10年以上前の学生時代。実際に旅もし、就職し再び旅に。

その間に何かが変わった。旅をしているだけで、新しい土地に行くだけで楽しかった自分はどこにいってしまったのだろう。20歳前後のような旅は今でもできるだろうか。あの頃の旅の方が本当に楽しんでいたのだろうか。

旅って何が面白いんだっけ。非日常としてリラックスする。気分転換をする。そんな効果以外は・・・。
どうもその辺が曖昧。多くの旅人は何を目的に旅をしているのだろう。
「世界を見たい」とか何か大きな目的があるのだろう。根拠レスだけれど、「目的」を持って旅をしている人の方が多いのではないかと思う。いや、そうであって欲しい。私のように無気力な旅人ばかりではもったいない。
ともかく自分にとっての旅の面白さ、もしくは何らかの良さ。その辺を明確にすると自分の旅もより良くなっていくはずだ。

久しぶりに1人旅をし、懐かしさもあると同時に2人旅との違いも大きく感じる。そしてまた、1人旅になったからこそ2人旅についても考えられる。1人旅を忘れていたといったら語弊があるが、それぞれの良さを引き出すような旅をした方が良い。これ以上はちょっと書きづらいが思うことは多い。

1人旅を楽しむには、心をどこかに忘れてきてはいけないということ。心を置いてくることとは違う。迷っている心の状態は旅そのものをも迷わす。

恐れることなく自分は自分であること。臆病な私は常に恐れを抱く。大切なものを失わないように恐れること。ただ大切にしまうだけでも仕方がないし、腫れ物に触るように気をつけても仕方がない。恐れることと、未然に防ぐことは同義ではない。恐れること以外に何か他に考えること、行動することがあるはずだ。

信じること。同じ場所に在ることと、一緒にいることは違う。重要なのはどこにいるかではなく、自分の本当の心をどこに寄せているか。自分が重要なのであって、それ以外は自分の感知できる外に在る事象。考えすぎることよりも、必要な時には必要な「起こり」が必ず訪れる。

旅に出て思う。
今は旅よりも大切なものがあると。

旅を続けることができるだろうか。
無駄な時間を費やしていると感じる場合は先に進むべきだろうか。それは、自分にとっての旅の良さを明確にすることから始まる。

興味のある場所。行きたい場所。自分の思い込みにしろ、何かがあるかもしれない・・・。
ただし思う。旅だけでなく、落ちついたものを求める心も大きく在る。

06/07/13

up↑

<なんとなく日記に書いたこと・・・。>

●「親切」について。(ブダペスト/ハンガリー)

●1人ということ。(シナイア/ルーマニア)

●ここ最近、考えることがなかった!?(ブラショフ/ルーマニア)

●最近なぜか涙もろい。(ヴェリコ・タルノヴォ/ブルガリア)

06/05/30

up↑

<マユの出発、ルーマニア行き。>

マユが、ルーマニアに向かう国際列車で去っていった。

昨夜も随分遅くまで飲んでいたのだが、なぜか朝も暗いうちに目が覚めた。マユも起きていないし、インターネットでもして気を紛らわす。
歩いて駅に向かうが、距離も大した事はないので気ラクなものだ。まだ出発時間までも1時間ほどは余裕があり、のんびり歩く。マユの後姿がまぶしく見える。

静かな朝を迎えている。
ソフィアの駅には人が溢れていると言うことも無い。

ちょっと寂れた感じだし、首都の中央駅と行っても、発着が頻繁にあるわけでもない。マユが駅内の売店でパンを買い朝食を済ませる。

別れはツライ。
駅では大したことも話さなかったし、別れを強調したいとも思わなかった。このまま静かにお別れになると思った。しかし、電車発車の音がすると自然に涙が溢れてきた。涙はともかくとして、マユがどう感じているのか分からないが、良い雰囲気で見送れたと思う。

電車が離れて行く。
電車にマユが乗っているかと思うと寂しい。電車を見送る時に、マユが離れて行くことを実感してしまう。そして距離を感じてしまう。こうやって電車に乗っている人を見送る際にリアルに「感じて」しまうという経験は今までなかった。
まだ、この現実を心や頭では実感できていないが、それでも身体や感覚は自然に反応している。

帰り道でもいろいろなことを思う。
洋服屋さんを見てはマユの好みを思い出し、看板を見ては何かしら連想する。全てがマユに行き着く。
以前に住んだ蒲田の部屋、浦安の部屋、そして、出会った頃の懐かしい顔、表情。全てが、全てが、今になってさらに貴重なものであったと気付く。自分にとっての相手の存在の大きさ、そして、良くないことかもしれないが自分の「依存」を実感する。
「依存」、お金や物に依存する場合もあるだろうが、1人では生きていけない普通の人間は、誰かに依存して生きていくことも多いだろう。依存していることに気づくこともなく生活をしている場合もあるだろうし、心地良い依存を素直に楽しんでいる場合もあるだろう。

「依存」という表現自体が間違っているかもしれない。
でも、私の言いたい「依存」のニュアンスも、何となく通じるだろう。

年齢が増し「大人」になるからと言って、自分が成長していると実感できる人はどれくらいいるのだろう。少なくとも自分については、以前と大して変わっていない、だ。その「以前」というのは、中学生や高校生の頃のような気もするし、20歳頃のような気もする。
ともかく、自分と言う自我、アイデンティティーはそうは変わらない。それが自分だと実感できるのは、それによってだろう。魂や霊魂のようなものがあるかどうか分からないが、身体は常に新しい食事や水、酸素の摂取によって常に変わっている。変わっている自分が、常に自分を意識していられるのは、記憶や感性を保っているから。存在の不思議さと共に、自分というものを追求したくなるのはこういった時だろうかと思う。

かつて、家族数人に依存していた自分が、いつのまにかマユだけに依存してしまっている。なぜ、人をこれほどに意識するのか。なぜ、自分は1人だけで強く生きて行くことができないのか。いや、それを試そうとしていないだけだろうか。

こんな取りとめもないことを、思い悩んでいるというのも1人になった効果だろう。人間には1人の時間も必要だと理屈では分かっている「つもり」でも、それは本当に1人になった時しか実行できない。そう、少なくとも私は、無理に1人になる状況をつくることなどまずない。
やはり、常にこういった沈思する時間を作っていくことは、自分にとってとても大切なことだろう。自分と言う存在を常に身近においておく為にも、自分の境界線をはっきりさせておく為にも、そして逆説的ながら、誰かを身近に感じる為にも、自然を素直に感じる為にも。

ああ。
きっと今は考える時なのだ。久しぶりに考える時が訪れたのだ。

06/05/09

up↑

<イスタンブールにて。>

どうも観光は面倒くさい。

今までもそうだったのだが、今は特にその意欲が消えている。好奇心が足りないのだろうか。はっきり言って、観光に興味があればそれに越したことはないと思う。せっかく来ているのだし、その価値が理解できれば・・・。

トルコに来て、皆既日食を見た。
前にも書いたが、今までの旅の目的がそれで終わり、次の目的が見出せないでいる。イスタンブール以降は、マユとも別に旅を続けることになる。あちこちで会ったりもするだろうが、基本は1人での行動になるわけだ。

今まで「観光すること」に関するモチベーションは、好奇心とか自分の希望とはちょっと違うところから来ていた。
「マユと一緒にいいものを見たい。」
「ホームページに載せるための写真が欲しい。」
それが良いかどうかは分からないが、マユにとってはおせっかい(観光をやたらと勧めるので)だった面もあるだろう(笑)。

今後の自分の姿を考えると、今までとはかなりの変化がありそうだ。各地を巡り、街を徘徊する。そして酒を飲む。できれば、踊りに行く。ほぼ確実にそういう方向に流れて行くだろう。
また、今まで「のんびりすること」に罪悪感を持っていた自分だったが、ようやく何もしないことに納得がいっている。以前の自分だったら、比較的物価の高いトルコで、何もせずにただのんびり過ごすなんてなかっただろう。もっとも、その「ただのんびり過ごす」っていうのは、私の主観であって、実際にはどうだか分からない面もあるが。

日本でずっと生きてきて、いや、現代社会では当然のことかもしれないけれど、無為に時間を過ごすことが苦手、もしくは出来なかった私が変わりつつある。
次の街を見なくても良い。次の国を見なくても良い。そんな割り切りと言うか、不思議な感覚がある。それは、もしかしたら長期旅行者にとっては当たり前かもしれない感覚にようやく実感が持てている。やはり知っていることや、理解できることと、実感を持ってそう「感じられる」というのは違う。そういう自分に対して嬉しくも思う。実社会に戻ったら、必要な部分はまた以前のような感覚にも戻れるだろうとも思えるし。また、戻らない自分がいたとしたら、それはきっとそれで幸せなのだろう。

旅を続けるにあたってのモチベーションって、何だろうか。

長く旅をすることが良いことという訳でもないし、日本に一時戻ったって良い。いたい国に長期滞在するのも良い。見たいものを探すのも良い。要は自分がしたいことを、許される範囲内でするだけだ。その上で、自分が旅を続けることを、逃げ(日本から、嫌なことから・・・)ではなく望んでいるというのが重要なのだろう。まぁ、何と言うか「旅を続ける」ということは、お金さえあれば簡単なわけで、日本にいるよりもずっとラクだ。
旅行者の中には「旅」の様々な要素に疲れを覚えたり、日本食や日本の文化、家族、友人が恋しくなることもあるだろう。ただ、実際に旅を続ける人にとっては、それらは些事でしかない。もしくは、旅によるラクさよりは小さなことなのだ。

旅に出る前は「36歳になるまでには再就職しないと。」そう真剣に考えていたのだが、それすらも本来的には重要でない気がする。
それが出来れば良いし、そうならなかった場合、つまり、35歳になってもまだ旅を続けていたとしても大きな問題ではないのだ。その時に考えれば良いことだし、余りに予定を組みすぎるとつまらない時間が過ぎて行くことになる。
時間がある場合には、ハプニングや流れといったものに身を任せることの重要さを改めて感じることができる。もちろん本当に必要な場合には、予定を立てて行動するのが良い。
けれど、今の自分にといって「本当に重要なこと」というのは、以前より範囲が狭まってきている。これはあきらめられるとか、割り切れるとかいうものではなく、内面の変化から来ている。

内面の変化は旅から来ているのか、年齢的なものか、きっと、いろいろな要素が混ざっているのだろう。ただ、長期間に渡る無為な生活に本当の意味で「慣れた」ということも大きいかもしれない。
無為な生活と言っても、いろいろなことをしている。だから、この場合の無為とは、日本の一般常識的に考えての無為ということだ。何も社会に貢献しないとか、生産的でないとか、言葉で定義するのは難しいけれど、外部からの刺激や考える時間には事足りない。
そういった中で、本当に自分に必要なもの・ことが少なからずも見えてくるのだ。以前の旅の際に、暇なときにすることは自分の好きなことだけだ、という単純なことにようやく気付いた。疲れているから寝るとか、そういったこともあるだろうが、何かするには意志がいる。
他人に押し付けられるような、外部強制的な日常に慣れてしまっていた私には、それすらも分からなくなってしまっていたのだ。

少しだけ話を戻すと、やはり私にとっての「旅のモチベーション」は、日本に本当に帰りたいと思うまで旅したいということかもしれない。これは実に消極的なのだけれど、少なくとも今の真実かもしれない。
欧州の入口であるトルコに来て、そして中東の入口でもあるトルコに来て、アフリカの入口でもあるトルコに来て、どこに行ったら良いか分からない自分がいる。どこに行ったら良いか分からないとは、自分が本当に行きたい場所が分からないという意味だ。
でも、それは自分に知識がないためかもしれない。欧州自体に興味はないけれど、オーロラが見たい。パーティに行きたい。そういった思いだけがあるのだ。そうして欧州に行ったら、何か興味を惹くこともあるだろう。南米やアフリカも同様。単純に「どこに行きたい?」と聞かれれば、「南米!」って答える自分がいるけれど、それも果たして「分かって」言っているのか。
もう、いっその事、東南アジアに戻ろうか、なんて考えてもしまうが、それはそれで、本当にそう割り切れるならそれも良いのだろう。

ともかくも、まだ旅は続ける。

06/04/30

up↑

<インドでようやく見えたもの。>

インドは、とても物価の安い国だ。
インドは国土も広いし、風土も文化も異なる各地方があるので、とても旅行するのに魅力的な国だ。しかも、インドは6ヶ月ビザを惜しげもなく日本人に発給してくれる。これは、他の国には滅多にないとてもありがたいことだ。

ネパールも同様に安い。
しかし、国土も狭いし、インドに比べると"多様性"という魅力に欠ける。ネパールには、インドとは違う魅力があって、それはとても素晴らしいのだけれど、移動しながら長期で楽しむと言ったスタイルは難しい。

旅人として、短期間で通過するだけなので、文化の深さなど難しいことは分からない。でも、単純に旅行者として魅力があるかないか、ということくらいは感じたりもできる。

以前に何度もインドを訪れた際は、若かった為か、それとも節約を気負ってしまっていたためか、インドの多くの魅力を見逃していた。
物価が安く、事件が向こうからやってきて、エキサイティングな国・・・、そんな程度にしか感じていなかったのだ。もし、物価が安くなければ、多くの旅行者は決してインドに長期で滞在などしないと思っていた。それも、ある面では本当のことだと思う。しかし、今回のインド旅行で、物価が安かろうと高かろうと(程度にもよるけれど・・・)是非もう1度インドに来たいと思った。
そう、インドの大きな魅力の1つは"多様性"だと思う。


左:ヴァラナシの路地、右:マドゥライの通り


左:コルカタの市場、右:ゴアの路地

国土が広いので、多様性はあって当然のようにも思う。
しかし、中国にはインドのような多様性はない。各地方によって、異なる文化はあるようだし、言語も違うけれど、街のあり方1つを見ても同じようなビルの建つ町ばかり。インドのそれとは大違いなのだ。
オーストラリアも国土は大きいが、アボリジニ以外の多様性というものは少ないように感じた。人口も少なし、歴史がないということは、その大きな要因なのだろう。

他に大きな国と言うと、ロシア、ブラジル、アメリカなどが思いつく。
どこも訪れたことはないので、これから訪れるのがとても楽しみだ。インドのようにめちゃくちゃな風な多様性は期待しないが、1つの国としてだけでなく、1つ1つの地方毎に楽しめる国であったら嬉しい。もっとも、それだけのことなら、多くの国を訪れれば多くの多様性を実感できて同じではないかとも思う。

ただし、インドはヒンドゥー教という同じ基盤の上に、多くの街が、多くの文化が、多くの伝統が築かれている。
ヒンドゥー教以外の信者も多いし、仏教やシク教、ジャイナ教、、、いくつもの宗教の発祥地であるというのも興味深い。3代目サイ・ババなど、今でも独自の宗教的な指導者のような人間が普通に存在し得るというのも、インドならではの風土に思う。
ダラムサラーに、チベット仏教のダライ・ラマ14世を保護したり、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立を持ちつつも信教の自由はそれなりに確保されているようにも見える。そういったことも、多様性の一因だろう。
また、国土が広く歴史も長い為に、多くの藩王国や異なる宗教の支配者が入れ替わり立ち代り支配していた。同じヒンドゥー教といっても、各地方の土着宗教を取り込んでいるために、それぞれの地方で微妙に神様に対する捉え方が違っているようにも思う。

さて、多様性と書いてきたが、今回私たちが訪れた街でも聖地ヴァラナシ、喧騒の街カルカッタ、パーティのゴア、聖俗併せ持つプリー、ミーナークシ寺院のマドゥライ、最南端のカニャークマリなど、ほとんどの街が"特徴"を持っている。小さな町や村は、訪れていないので、断言はできないが、町や村でも大きな街(や観光地)と同様に地方毎に特色がありそうな気がする。

ああ、まだまだインドについて知りたいことが多い。そして、普段は知らなくても良いと思うのに、今回は・・・もっとインドに滞在してもっと知りたいと思う。私もようやくインドの魅力にはまってきたのかもしれない・・・。

06/02/20

up↑

<旅人の視点から見たネパール。>

ネパールは、中国とインドという2つの大国に挟まれた国だ。
南部の平野から北部の山岳地帯と、狭い国土の割に自然も幅広い。

ネパール人は「やさしい」。

特に中国とインドに挟まれているので、その感が強くなる。
中国人には「少し暗くて真面目な」、それでいて「ばれないように騙す」感じの印象がある。「自己中心的」で、特に集団になると怖いしワガママ。公共道徳もない。
インド人は「子供のように好奇心旺盛」、誰でもわかるような「くだらない嘘」さえも連発する。やさしいけれど、うるさいし、しつこいと感じる。態度もでかい。
ネパール人は、それに比べると控え目で親切、嘘も普通についたりしない。

物価もインドと同様にアジアでも、最も安い部類に入る。食事も宿も豊富で、安心して滞在できる。
それに何と言っても食事が安くて美味しい。

インドやチベットのご飯が、日本食とはかけ離れているので、特に強くそう思うのだろう。
日本料理だけでなく、韓国料理、西欧料理などが豊富で、美味しいご飯を選択できるのもありがたい。

ネパールのそういった居心地の良さは、気候や伝統も含めて、2つの大国に挟まれていることにも原因があるのだろうか。
少し関係ないかもしれないが、どちらの国ににらまれても生存が厳しい。小国としての立ち回り意識もあるのだろうか。

<<<1旅行者としての単純な視点で見ると・・・>>>

食事 ネパール > チベット > インド (物価判断も含む)
人間 ネパール > チベット > インド
自由 インド > ネパール > チベット
便利 インド > ネパール > チベット
気候 ネパール > インド > チベット (主な場所)
物価 ネパール ≧ インド > チベット (左が安い)

※ただし、チベットには「チベット人」「チベット文化」など、「独自」の魅力がある。

05/12/21

up↑

<中国について考えた。>

中国には公安(警察)をはじめとして、無駄な人が多い。と言っても、実際に中国にとって公安は必要なのであろう。実際には「無駄に思われるほどの公安を配置しないと国が成り立たない」現状が問題なのだろう。
国境沿いの街を歩いていれば、軍人が街のそこここで目に付く。少数民族や独立問題がある街を歩いていれば、公安や軍人が街のそこここで目に付く。とにかく、国内・国外を含めて問題が山積しているようだ。

そういった国内問題の目をそらすかのように、テレビでは毎日のように第二次世界大戦時の日本を悪者とするドラマなどが放送されている。戦中に日本がどういった悪さをしたとか、そういったことを放送するのも良いが、現在の中華人民共和国がチベットやウイグル(東トルキスタン)に侵略中であるということをどれだけの中国人が認識しているのだろうか。

だいたい、全ての中国人が国内を自由に移動することすら認められていない。もちろん外国人も自由に旅行することを禁じられている地域は多い。

10ほど年前の中国と比較すると、ホテルやバス(道路も)、電車などといった物質的な面は大きく発展している。トイレは未だにそれほど改善されていないようだが・・・。
公共道徳やマナーといったような物質以外の面も含めて、中国は内面的な部分が変わっていないようで、また"自由"ということも依然として無いようだ。

チベット内に無数に掛けられた「慶祝西蔵自治区成立40周年!」「西蔵の未来は明るい!」みたいなものが白々しい。
何だかチベットに来て、中国の印象がグッと悪くなったのは否めない。これまでの自分の知らなかった中国やチベットの1面を知ったことによるが、多くの旅行者も同様に感じるのではないだろうか(観光地を巡っているだけだと、そういうこともないのだろうが)。

05/11/21
up↑

<外国人料金について考えた。>

旅行をしていると外国人ということで、高い値段を言われることがある。

それは、どこの国でもというわけではないが、途上国では普通といえば普通のことだ。ちなみに、私たちが旅をしてきた国では、ベトナム、インドネシア、ラオス、カンボジアだろうか。
しかし、それらの国の中でも、情報ノートや旅行者の声でベトナムを嫌っている人が極端に多いような気がする。これには、何か理由があるのではないだろうか。

パッと考えてみると、ベトナム以外は商売の駆け引きの要素が強いが、ベトナムは駆け引きではなく"外国人にはいくら"と決まってしまっている点が異なる気がする。

そもそも外国人料金とは、どこから発生しているのだろうか。

思うに社会主義国の安いインフラ料金に対して、外国人が利用する際には"高い外国人料金"を設定して徴収するなど(電気ガス水道なども)が始まりではないだろうか。そして、それについては国民の共有財産を"国民以外が使用する場合には(例えば)建設費分の料金を上乗せして徴収する"という理屈が考えられる。
それもどうかとも思うが、税金で建設した国有の資産を利用する場合には、納得可能な理由でもあるだろう。

では、あるモノを普通の価格よりも高い値段で売ろうとするという行為はどうだろうか。
ほぼ一物一価が基本であると言いつつも、日本であっても価格は店によって異なる。そして、購入する消費者が、どこで買うかを選んでいる。家から近くのお店で買えば高いかもしれないし、遠くの安売り店まで行けば安いかもしれない。ごく普通の話だ。要は、売る者と買う者の妥協点を探り、お互いに納得した価格で売買できれば、普通の商行為と言えると思う。
さて、そう考えると、ベトナムの商売人が高い値段ばかりを押し付けようとする行為も全く正しい。しかし、本当にそうだろうか、例えば外国人に対しては"利益の出る価格であっても売らない"というのは、どう捉えれば良いのだろう。

まず言えることは、交渉しても値段が下がらない場合は、その地域全般にそうであることが多いということだ。要は、その町の旅行者が集中するエリアではとても値段が高い(通常価格の倍など)。そして、利益の出る価格であっても、ある程度以上の価格でなければ売らない。その高く売る特殊エリアが狭ければ、対処のしようがあるが、それがなかなか広い。よって、とても高い価格で購入せざるを得ない。要は納得はしていないけれど、購入せざるをえないのだ(もしくは、次の町まで購入を見合わせる)。
その行為は、先進国で言えば談合のようなものだろう。そういったことが犯罪であると、当たり前のように考える日本(先進国)から行って、高く売りつける行為に対して憤りを感じることは極めて自然かもしれない。

さて、外国人に高く売りつけるという行為は、旅行者の少ない地域ではほとんどない。それは、多くの外国人料金は、旅行者が訪れることによって発生したということを表している。
外国人料金の発生は、当初はお互いにとって悪意や利益目的ばかりではないだろう。言葉の問題から意思疎通が不十分で、単純化するために現れたりする。
例えば2,500を表現するのに、2,500を表現するのは面倒なので、単に3,000と伝える(他にも発生は考えられるが、ここでは省きます)。それを毎回やっているうちに、旅行者は高い値段でも平気で買っていくと考えるのだろう。高い値段で売れれば、より多くの利益も出るし好ましいに決まっている。そして、旅行者向けの価格が少しずつ少しずつ高くなっていくのだろう。
今、そういった国や地域を訪れている旅行者が、販売者の言われるままの高い値段を受け入れていると、後に訪れる旅行者はより高い値段でないと買えなくなってしまうということも考えられる。

そういった国の発展(?)が進み、人や物の移動が激しくなれば、一般的には"特別な値段"は消えていく運命にある。そのように考えると、これも発展(?)の一段階なのだろうか。

根本的なところに話を戻すが、ある程度値段が高い料金で売りつける行為は、外国人に対してだけ行われているのだろうか。いや、そうではないと思う。地方から出てきて(またはその逆)、利用したいサービス(または、モノ)の料金を知らない者は、同国人であっても高い値段が請求されることがある。しかし、それにしても通常価格の倍などは起こっていないのではないだろうか(全くないとは言わないが、日常的かどうかという問題)。
どちらにしても、同国人の場合はお互いが納得いく価格で売買が成立するのではないだろうか。例え高い値段だったとしても、お互いが納得していれば問題はないはずだ。
この場合は、外国人と同国人の差異は言葉が通じるかどうか、ということにも大きな原因があるのだろう。
もっとも、外国人料金が定着した場所においては、言葉が通じるかどうかなどは問題ではなくなっていることが多い。言葉が通じずに、売るのに値段の説明をしなくてはならないとかが面倒だから高く売ると言うのではなく、値段をしていて品物とその値段を提示しても、倍くらいの金額を請求してきたりするのだ。・・・つまり言葉云々でもない。そして、交渉がなりたたないケースすらあるのだ。

そう、外国人料金が定着してしまっている場所では"交渉(選択)の余地が限られる"というところに不満が生じるのではないだろうか。

特に日本では、誰が購入しようが対価は同じ、というのが常識となっていて、否定のしようがない。そういった観念を持ち込むと、品物毎に交渉が必要であることや、外国人であるがゆえに高い料金を払わなくてはならないということに違和感を覚えるのだろう。

ここまでいろいろと考えてきてみたが、外国人料金の多くは途上国で発生している。よって、日本のような国から訪れた者にとっては、日本で収入がある場合は大きな金額でない場合がほとんどである(もっとも、途上国から途上国に旅行する者のような場合には、とても大きな金額と感じる場合もあるだろうが)。

さて、日本人の場合に考えたらどうだろう。
"外国人料金は、自分にとって大きな金額ではないので払っても良い(消極的理由)"
という考えも普通に思えるが、それが、
"外国人料金は、自分にとって大きな金額だけれども払っても良い"
とは考えられないだろう。要は金額の大小によって、同じ行為に対する判断が変わっているということになる。それは、臨機応変、または、現実的とも考えられるが、どちらにしろ消極的理由だろう。
日本との物価差を考えて、安いか高いかを考えているからこそ出てくる発想だ。

しかし、
"私たちは恵まれているので、外国人料金を払っても良い(積極的理由)"
という考えであれば、問題はないように思える。インドでも、そういった思想はあるし、仏教国などではそれは普通の考え(逆に、徳を積む機会を与えてもらったという思想)もある。
ただし、ベトナムでは商売人の態度の問題もあり、日本人はそういった気持になる人が少ないのだろう(そもそも、日本人にそういった発想は乏しいのか?)。白人旅行者の場合は外国人料金について感じているのだろう。しつこく値切ったりしているところを見れば、日本人と同様に感じているようにも見えるが正確なところは分からない。もっとも、不満の声は大きく広まるけれど、満足について吹聴する人は少ないと考えると、日本人の中でもそれほど不満は大きくないのかもしれない。

屁理屈(大局的に?)を考えれば、
"そういう商売をしている人よりも、もっと恵まれない人に与えるべき(外国人料金などを請求するのは、ある程度恵まれてちゃんとお店を構えて商売をしている人が多いと思う)"
"その場でだけ与えても、何の解決にもならない"
など、いくらでも考えられそうだが、それは"与えたい"という感情を捨ててまでのことではなく、両方すればいいことだろう。ただし、多くの人は"その場"だけで、終わってしまうのだろうし、それを悪いとも言えないが。


アレコレ書いているうちに、取りとめもない内容になってしまった。ベトナムがなぜ多くの人からあれこれと書かれているかは、一概には分からないが、私にとっての結論は・・・

・"交渉(選択)の余地が限られる"ので不満が生じ、ベトナムの外国人料金が嫌な印象を与えている。
・ベトナムでは、積極的理由で支払うような状況(気分)が少ない。

もっとも、これから行く中国も、地域によっては印象が悪そうだけれど。

05/09/20

up↑

<旅を続ける影響・・・ワガママ化!?>

長い旅をしているとワガママになっていく気がする。
いや、我慢することを忘れていくというか、子供のような律することの少ない自分が出てくる。

以前に1人旅をしている時も感じたが、2人旅でも同様なようだ。ただし、2人旅の場合には相手のことを常に考える必要がある。よって、2人旅では1人旅ほどワガママ化の症状進行は早くなさそうだ。

常に1人でいることに耐えられるほどに強い人間は少ない。しかし、ずっと1人旅をしていると・・・誰かと話したいけれども、誰かとずっと一緒にいるのは苦痛になる。要は、都合の良い時だけ相手を求めると言うことだろうか。
以前に1人旅をしていた時は、部屋の扉を少しだけ開けておくようなことをしていたことがある。そこでは、長期滞在者が多く、皆がいつも一緒にいるわけではないし生活のサイクル(時間)が異なっていた。扉を開けていたのは「暇な人がいれば来てね!私は起きてるよ〜。」というような意思表示だったのだ。そんなことをするのも寂しさの表れなのだろう。

寂しさが講じて酒をしたたかに飲んだ夜などは、友人と部屋に帰り、さらに酒を追加してそのまま友人も含めて部屋に倒れるように寝たりした。それが楽しかったのもあるし、誰かが部屋にいるという安心感の中で寝ることの心地よさを味わいたかったのもある。

その点で、2人旅は寂しさからは程遠い。けれど、ワガママ化は・・・気を許しているゆえに知らぬ間に進行してしまい・・・相手を苛立たせることもあるようだ。
そんなことを考えていて思ったのだが、2人でいると人間との関係性について、コミュニケーションについてアレコレと考える。1人でいると自分のことを中心に思い悩む(自省など)。
そういったところにも、1人旅と2人旅の違いがあるのだろう。
さらに、1人旅であると暇な時間、考える時間が多い。よって、今書いているようなこういったことを考える頻度は高い。そういったことはとても楽しいし、以前の自分が書きとめたノートなどを見ると
(う〜む、こんなことを考えていたのかぁ〜)
と改めて驚かさせられることもある。

例えばの話だが、花瓶にさしてある花束から1枚の葉っぱが落ちたのを見た。それを見て、
(ああぁ・・・、この葉っぱには落ちたかったのだ。落ちる理由があったのだ。)
重力うんぬんではなく、そんなことを考えているのは「おかしい」かもしれないが、そういった素朴なことを考えていても、ある時にフト何か気づいた気がするのはなぜだろうか。
誰かの仕草を見て、その意味を初めて理解できた気がする場合もある。
その理解したと思った意味は、正しくないかもしれない。が、今までは理解できている可能性すらなかったことに、可能性が生じたならそれは幸せなことだ。


私はしたいことをしている。常にだ。したくないいことを選択するような決断はない。嫌だなぁ〜と口にすることがあったとしても、それはそのことだけを考えてのことで、すべてを総合的に考えればそうでないかもしれない。つまり、そういった意味で、常にしたいことを選択している。決断とも言えるかもしれない。
「あぁ〜、こんな仕事嫌だなぁ〜」
そんなことを言う人がいれば、・・・本当に思うなら辞めればいい。でも、私がそう言っている立場であっても普通なら辞めないだろう。なぜなら、その仕事を嫌だと思っていても、辞めてしまった場合のリスクに対する恐怖心や何がしかの理由がそれを押しとどめるから。そういった、ここで言う「辞めないこと」も決断の1つだ。それも総合的に見れば、自分がしたいことをしている、ということになる。


・・・一つも馬鹿なことをしないで生きている人間は、彼が自分で考えているほど賢明ではない。

05/06/12

up↑

<旅が日常になるということ>

旅が日常のように感じられると、私は「何もしなくなる」ようだ。
以前もそうだったが、こういった感覚は久しぶりのものだ。ようやく本当の意味で旅に慣れてきたと言うことだろうか。

先日、日本の友人からメールが来た。夏(7〜8月頃)にどこかで会おう、という内容のメールだったけれど「ドキッ」とする1文があった。

「長旅にある人の時間感覚と、私たちの時間間隔は違う」
・・・その時にまず思ったことは、深夜や早朝にメール(携帯電話にメールすることも多い)をしてしまったりして「迷惑をかけてしまったかなっ?」ということ。確かにそれはそれで、アジアやオーストラリアにいて時差が少ないこともあり、相手のことを考えて行動していなかった。電話であれば掛ける際に、日本の時間を確認する。パソコンならともかく携帯電話にメールするのであれば、もう少し考えるべきだとようやくに悟った。

しかし、実際に友人が考えていたのはそういうことではなかった。
彼も1年以上にわたる旅を数回している。それで、彼が実感していたことを素直に「吐き出した」だけなのだ。そう、旅先で長期に滞在している人と短期で訪れた人とでは、時間の「希望消費密度(?)」に差異が出てくる。

要はこんな感じである。
短期「今日は起きたらアレをして、コレをして、ご飯はアレを食べて、夜はアソコに遊びに行こう!」
長期「う〜ん。(・・・過密スケジュールだなぁ〜)」
せっかく友人が訪れてくれたのだから、当然一緒に遊びたいし、また楽しいことも確かだ。だけれど、そういうことも多少は感じるであろうことが想像できる。まぁ、だからどうだというわけでもないのだが、これが私にとって「旅が日常になること」の1つの兆候だ。

ともかく、それぞれに当たり前のことだと思うけれど、そういったメールを読んで、ようやく最近の自分の行動や感覚に思い至った。
自分では気づかないことや考えもしなかったことを、突然に気づくことがある。周囲からの指摘であったり、何か見たりして突然に「気づく」のだ。そういった時はなんだかとても嬉しい。すぐに忘れてしまうかもしれないたわいのないことであっても「そうだなぁ〜」という納得に出会うのは嬉しいものだ。

きれいな花を見て「あぁ〜、きれいだなぁ〜」というような発見でも良い。簡単なことなのだろうけれど、頻繁にそういったことはない。それは、私が無感動な人間だからだろうか。そうではないと思いたいが、そういった感情を含む喜怒哀楽などには個々人で随分と差異があるように思う。

何か予定調和の中にいると、そういった感情や驚きは少なくなるのだろう。突然のハプニングや自分に予想できない事態、そういったときにいろいろな「気づき」、そして「感動」なども得られるのかもしれない。そうして考えてみると、全てに計画を立てたがる(もしくは準備をしたがる)というのは、面白くないことかもしれない。

そう、もっとフレキシブルに行動した方が楽しいのだろう・・・。

・・・人間の自由を奪ったものは、暴君でも悪法でもなく社会の習慣である。

05/05/29

up↑

<独創性の有無について>

サイトなどを作っていて特に思う。

独創性って何だろう? そして何よりも、自分には「独創性」や「ユニークさ」といったものがあるだろうか。

それを煎じ詰めると「自分で考えると言うこと」が、自分にできるかと言う気がする。過去にどこかで読んだり見たりした知識を、その場の状況にアレンジして持ってくるのではなく、ゼロから自分で考えるということが自分にできるだろうか。そもそも、そんなことに意味はないかもしれないし無理かもしれない。しかし、自分の頭(?)が働いているかどうか稀に疑わしくなってくる。
そういった類似状況を探しているのも自分であるのだろうが、同じ結論を得るにしても自分で考えた結論であって欲しい。他者の知識に寄らず、誤った結論を導くこともあるだろう。そういった場合には、自分で考えた後でそう理解したい。

そんなことはわがままだろうか?しかし、私は他者の思考回路を覗くことはできないので、私の思考が一般的なことか分からない。

何かを考えると言うのは贅沢な時間だ。
以前に長期(1年)旅行した際には、恋愛や時間の消費について悩んだ。正直に言うと7〜8割は恋愛関係だった。また、そういって悩んだことで「少し成長したかな?」と思えるような自分もいた。要は、当たり前のことでも「自分で考えて納得することと、知識で知っていることは違う」と言うこと。自己満足かもしれないが、何かを実感できたと自分が思えるなら「自分にとって」は満足すべき状況だ。

今は、そういった意味では悩み足りない。
そういえば、インドのヒンドゥー教の聖典でもある「ヴァガバット・ギーター」には、欲望を捨てろとある。欲望が怒りや余計な感情を呼び起こし、争いも生む。そういったことをなくせば常に幸せにいられる。そういった思考の存在は人間ではなく、別の存在かもしれない。ただ、本当の意味で少しだけでも無私に生きられたら素敵だと思う。

自分にとってや相対的ではなく、なにか絶対的なもの。価値観ではなく、全てに受け入れられるもの。

思考とは、嗜好でもあるのだろうか。。。

05/05/05

up↑

<旅についての迷い>

旅に出て、ようやく150日が過ぎたらしい。らしいといのは「世界ぷらぷら」のサイトをインターネットカフェで見たときに、トップページの日数カウントがそうなっていたからだ。

自分が旅に出て「したかったこと」とは何だろうか?
いろんな国を見たい。いろんな人と出会いたい。そして、旅という非日常のラクな生活に身を委ねたい。そういった漠然とした思いだけだっただろうか。

実際に旅を始めてみて、開始から現在までの旅のスタイルで本当に良いのだろうかと思う。そう、何か満足していない気がする。何がどうだという明確な思いではないのだが、何かが足りない気がする。自分のしたいことに夢中で取り組むとか、新しい出会いごとに「友達になる」とかそういったことが不足しているようにも思う。
それと、何と言っても自分の心の持ちようだと思うが「このままずぅ〜っとここにいたい!」と思えるほどの街に出会っていないからだとも思う。と言って、いくつもの街を訪れてもいるし、私の心がそういった風になっていないのだろう。

いくつか思い当たる理由の1つは時間についての感覚の問題だ。今は本当は時間に追われてはいない。大局的に人生という観点から見れば、少なからず時間に追われると言う面はある。しかし、今はそこまでは気にしなくてもいいはずなのだ。そうは思っているのが、本当に心の底からはそれを納得していないのだ。
自由なはずなのに、当初想定した旅のルートに縛られている自分もいる。中国のチベット(ラサなど)を訪れたいのだが、ネパールに抜けるルートを通るには冬前に行かなくてはならない。そうすると日付を逆算して旅をしなければならない。ラサまで延びる工事中の線路が完成する前に行きたいとか、いろいろなことを考える。別に陸路ではなく、飛行機でネパールに行けば良いのだろうが、どうも陸路でネパールに入りたいなどと固執してしまうのだ。
今、もう1つ気になっているのは2006年春の皆既日食である。アフリカ北東部から中央アジアの方向に、皆既日食が進むらしい。皆既日食の下で行われる野外パーティに参加し、感動したい(できるかどうかは分からないけれど)。う〜ん、やはりあれこれと先の予定を考えて、それで自分を制約してしまうのが、私にとって旅をつまらなくする原因かもしれない。
考えてみると以前の長期旅行では、気がつくとそこに数ヶ月もいたという感じだった。2〜3ヶ月の旅でも、1つ2つ目の街にはまってしまうということもあった。そういう自分でなくなったのはなぜだろう。もう少し、そういうところから考えないとならないのかもしれない。

2つ目は、2人で旅をしているということ。これは、旅のスタイルとして徐々に慣れてきているし変わってもいるので、この先も徐々に制約事項ではなくなっていく気がする。

3つ目は、心から楽しもうと言う気持が足りない自分だろうか。なんだか分からないけれど、笑う笑う笑う、大笑いをする。そういったことって、できるときとできない時がある。もう少し、自分の心を楽しい方向に持っていかないとならない。

・・・人間が、自由であり得るためには、神があってはならない。

05/04/09
up↑

<「世界ぷらぷら」サイトを作っていて思うこと>

自分たちの旅のサイトを作っている。
特に大きな目的があって作っているわけでもない。ただ、こうサイト作製に自分の時間を割くに当たって「自分にとっての記録だけでなく」、「他の人にも見てもらいたい」という思いも出てきた。

自分にできること、「世界ぷらぷら」サイトに特徴を持たせること、それは何だろうか。
そもそも「(自分以外の誰かが)興味を持つこと」が記載されていることが「(有用な)情報」なわけで、そういった事項を含ませなくては自己満足だけになる。そして、自分以外の多くの人と私(たち)の書きたいことが一致することってなんだろう。
プロであれば自分のことは脇において、客観的に多くの人が興味を持ってくれるような内容を書くことができるのだろうか。・・・それでは、面白いものは続かないのかもしれない。

う〜ん、難しい。

05/04/09
up↑

<何だかマラッカに来て楽しい。いや、ジョホールバルあたりから?>

ここ最近は、何だか以前より楽しい旅生活を送っている。

旅を始めて2ヶ月以上が経過した。
その間に、自分自身の旅スタイル、そしてマユの旅スタイルが見えてきたこともあるだろう。24時間365日一緒にいるので、2人で共有する時間の長さが旅に出る前とはかなり違う(圧倒的に長い)。
ここまで長いと「良い恋人」同士としてだけでなく、「良い友人」同士としても成立しないと難しい気がする。

もっとも、夫婦や普通に長く付き合っているカップルなら当然のことかもしれないけれど。ただ、「良い友人」としても楽しめないと旅に関わらず、長い人生において何らかの問題が起きてくる可能性が高いのではないかと思う。マユと私の感性はかなり違うけれど、「???」と訳がわからないこともあれば、「面白い感じ方をするな〜」「意外なことをするな〜」と感心させられることも多い。そういうのがないのが良いのか、あるのが良いのか、良く分からないけれど今は満足している。

それと、最近になって「地球の歩き方」や「LONELY PLANET」を手に入れたこともあり、2人で「どこに行くか」を活発に話すようになってきた。先の展望や予定を話し合うのは、旅の醍醐味の最も重要で楽しいことの1つだと思うから凄く良い傾向(&楽しい、嬉しい)と思う。

05/01/23

up↑

<旅に出て自分がしていること>

掃除、洗濯、そして食事!

日本を出発してから1ヵ月がたった。特に何をしているという訳でもなく時間は過ぎてゆく。
仕事などをして生活していた頃の「週末」の生活と、それ程の差はない気がする。もっとも、まだ現在いる場所がタイであるからかもしれない。タイは何でも揃っていて便利だし、日本語が通じないことの他は特に困ることもない。

今のところ、大きな「出会い(強烈な印象の人や町など)」がなく、旅を実感していないのかもしれない。そう考えると、早く東南アジアを離れて、知らない地域に行ってみたい。直近で東南アジアを離れるのはオーストラリアが最初の予定だ。どう感じるのかな・・・。

日々の日課といえば〜
・部屋の掃除 掃くくらいなのですぐに終わる
・洗濯(20-40B/1kg程度でお願いすることも可能) もっとも力がいる仕事か?
・食事(昼と夜の2回くらい) 何を食べるか悩むのも楽しみのうち
・飲酒(飲みすぎに注意である)

04/12/12

最近は自炊を始めた。
日本食を作り、食べることそのものもおいしくて嬉しい。ただ、それ以上に「食材を探すこと」「料理すること」「何を作るか考えること」など、当たり前のことが楽しくてしょうがない。暇な日常にアクセントをつけることができるので「何かする」ということ自体が特別だからだろう。
「観光をする」「バスで移動をする」ということも、行動ではあるけれども何だか料理などの方が自発的に感じるからかもしれない。

05/01/15

up↑

<旅に出て自分が何をするか>

今までの自分の旅を考えると疑問がある。

だいたい私は、何か「もの」に興味を持つことが少ない。旅人に興味を持ったりはするが、遺跡や建物であったり現地固有のものであることが少ない。 これでは旅に出ている意味が薄いのだろうか?

また、今までは移動ではなく一箇所にいることが多く、もっぱら現地の言葉の勉強をしていたりした。1人でいると人恋しくなるのか、言葉を覚えてあちこちで会話することが普段より楽しい。また、言葉を勉強していると無為ではない時間と感じるのかな。ともかく今回は、旅を続けることも目的でもある。どこかに沈没するのではなく、移動することに対するモチベーションを保っていたい。
だが、好きな場所には長居してみたいと思うし、たまに休憩するのも良いと思う(それが沈没への第一歩かな)。次の街へ、次の街へと絶え間なく動いている旅人もいるようだ。そういった方と話をしてみたい気もする。

だいたい自分は朝に起きるのだろうか?以前は夕方に起き出し、朝まで飲んで寝る。そんな生活ばかりだった。何かしなくてはならないことも「明日、明日」となる。普段、心配性で事前に物事を済まさなくては安心できない自分とは別人のようだ。「明日、明日」となることは、時間に余裕があるということであり、そういった時の自分は何か変わることがあるのだろうか。

04/09/28
up↑

<一人旅と二人旅の違い(理想は?)>

今までの旅と今回の旅の、一番の違いは「二人で」行くということ。一人だと何でも自分の思うがままに(ある意味、自分の我が侭放題で)行動できる。

下記のようないろいろなことに制限がないというのは、一人旅の醍醐味の1つだと思う。二人でも旅をしている限りは、仕事や義務からはある程度開放されている時間なので、全く違うということではないと思うけれど、違いはあると思う。
 ・起きる (する事もないし、ただ寝てよ〜ってのも、それはそれで幸せ!)
 ・寝る (眠たくなるまで寝ないし、寝たくなったらすぐに寝られる場所を宿にできるのも幸せ!)
 ・ご飯を食べる (1日の1大イベントである食事は、いつも幸せ!)
 ・夜中に遊びに行く (眠れない時や、ちょっと気が向いたときに、何も気にせず酒を飲んだり踊
  りに行けるのは幸せ!)
 ・部屋でだらだらする (意味もなく時間を潰す、ドミトリーでひたすら雑談するのも幸せ!)
そして、一人でいると自然と出会いを大切にする。

今までまわりの旅人を見て、下記のようなことをマイナスではないかと感じた。(主なもの)
 ・その他の人と会話する必要性が薄い(だから余り話さない)
 ・出会ったその場で、旅人同士で一緒に出かけることが自然と減る
(1対1で向き合うことが少ないと、仲良くなるのが難しいかもしれない)

逆に二人で旅することの良さは、経験は無いけれども下記のようなことが考えられる。(主なもの)
 ・一人でいることの孤独がない
 ・一人の感覚だけでなく、お互いの感覚を共有できる(ちょっと多めに喜怒哀楽が感じられる?)
(やっぱり、好きなコと一緒にいられるというだけで幸せだけど)

二人で旅をするとお互いを重視(尊重)することになる。それは凄く重要だし、濃密な時間を過ごせると思う。ただ、二人の時間を過ごすだけでなく、一人旅の良さも捨てずに旅ができたら良いと思う。要はお互いを大切にしつつ、自分を捨てないで過ごすことだけれど、そういったバランス感覚を自分が持っているか甚だ不安でもある。旅という非日常生活だけでなく、それは日常生活にも通じることだし、旅においても志向したい。

04/09/09

up↑